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. 健康のための散歩ならじいさんの残してくれた広大な自宅の庭(猪俣
は事情があって幼いころ父親の実家に養子に出されていた。)で事足り
るのだが、失恋したばかりで私も知っているその女から「幸です、あな
たがいない事で。」という最も恐ろしいマントラ、観念的殺人であるそ
の記号をメール受信していた猪俣は、私から家にばかり引きこもってい
ないで散歩を習慣にするように忠告した事もあったり、町中へ出て人と
交わっておかないと、社会で働く事のない彼にはなにか現実から遊離し
ていくような気がしていたのだろう、何時の間にか散歩は日々の習慣に
なっていた。
. 現実の猪俣の屋敷は町場とも言いがたい半島の先の田舎にあり、しか
し土地の奪い合いはそんな辺鄙な所まで押し寄せて来ていて、ベニアと
石膏ボードの箱が犇めき合って、エッシャーの絵のように複合する空間
を醸し出しているベッドタウンの丘の上に、それらを見下ろすように建
っていた。
. 原価計算をすればきわめて安価なジュース類がロボット化した自動販
売機文化のお蔭で10時と3時の労働者達に水分と糖分と少しばかりのビ
タミンを提供する。
. そんな箱も共々、ゲーム前のマージャンパイのように連なった家々を
迷路のように不動産屋の都合で路が這い回っていて、袋小路の行き止ま
りも多く、散歩するには一寸した勘が必要だった。
. しかしそんな土地柄も見ようによっては、オリエンタルな山の城壁の
ようで、猪俣は少し見方を変えてやれば、どんな物でも自分の美学の範
疇に取り込む事が出来る術を心得ていた。
. そんな日の散歩の途中で、彼は何時もなら通り過ぎてしまう、きっと
先は行き止まりであろう細い坂道を上がった所に、周りの家からは浮き
上がった一戸の不思議な形の家を見つけたのだ。
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. 彼は建築への興味からフラフラとそれに近付いた。
. その崖淵にある家には白い玉砂利を敷き詰めた庭が葉影から少し見隠
れしていたが、家全体は通りからは見えず、芝生を生やした丘の斜面の
ような傾斜を見せているだけだった。しかし猪俣にはそれが家の側面で
ある事が分かっていた。
. それは30°位の角度でそそり立って外部を拒否しており、綺麗に育て
られた芝生が斜面に生えている以外に窓はなく、その中間に古代の玄室
の入口のような奥まったドアを持ち、それには郵便受けの穴と音声識別
ロックとインターホンが付いていた。
. 子供がたまに空き地と間違えて這い上がり直ぐにずり落ちてしまいそ
の登山を諦めてしまう事が度々あった。
. 要はこの家は三角柱を倒したような形をしていたのだ。
. こんな中産階級なベッドタウンにも自分と同じような変な建築に住む
奇人もいるもんだと思い、あるいはこれはニューウェイブな建築家の作
品を無理矢理押し付けられた金持ちの別荘かも知れず、大変気になった
のではあるが今日のところは何時もの散歩コースへと振り向き振り向き
しながら軌道修正したのだった。
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. それ以来度々前を通り過ぎる時の情報を整理してみると、その家にす
んで居るのは母親と若い娘との二人暮しで男気はなく、いつも通りの葉
影から見隠れするのは庭へ出て二人で海の方を眺めている姿か、どちら
かが昼近くにゴミを出している姿だった。
. 娘の方は聡明そうな美人で猪俣はゴミ袋を持っているところを道を聞
くふりをして軽く話しをする。
. 「あのぅ〜、このお家にお住いですか?こちらの方へ上がると行き止
まりですか?」
. 「あっ、はい、そうですが何か?」
. 「いえ、変わったお家なんで何か建築関係のお仕事でもしていらしゃ
るのかと。」
. 「あら、いいえ、知人に設計をお任せしたらとんでもない物ができて
しまいましたの。でも住んでみると見た目ほど使いにくく無く、むしろ
非常に合理的でして、はい。 あっ、ちょっとゴミ出して来ますね。」
. 「あっ、これは失礼、歩きながら話しましょう。じつは僕は建築関係
の雑誌を発行していましてあなたの家に大変興味を持ちまして不躾でし
たがお声おお掛けしました。」
. 「御近所にお住いなの?」
. 「ええ、この上の夕日が丘3丁目です。」
. 「3丁目ってあそこには確か一軒のお屋敷があるだけでしょ。」
. 「ええ、そこです。」
. 「イノマタさん?」
. 「あらあら、大変な方なんだ。」
. 「いえ、そんなことは……」
. 「お宅の山のレンガ塀ぞいを犬とよく散歩しますわ。随分広いお宅な
んでしょ。」
. 「ええ、まあ。でもお宅のようにこんなにモダンなものではありませ
ん。逆にだからモダンな物に惹かれるのかなぁ〜。今度是非内装も取材
させて頂けませんか、お暇な時。」
. 「……。そうですね。又、暇な時にでも。」
. 「ええ、是非。うちの庭も今度散歩のときにおより下さい。そこらの
公園よりは面白いですよ。」
. 「あら、それはそれは。町内のよしみで今度是非。それじゃあ今日は
食事の支度がありますんで。」
. 「あっ、これは気が付きませんで。それじゃぁ失礼します。」
. そう行って猪俣はその日は女と別れた。
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. それ以来、猪俣の散歩コースは女の家の前の道を取り込んで修正され
雨の日以外は何時もそこを通る事になった。
. 女の姿は庭に見かける事もあったが話し掛けるようなタイミングはな
く殆どの日がシィ〜ンと静まりかえった、家に見えない家が存在してい
るだけだった。
. 女も犬の散歩の途中で猪俣の家の庭を訪れる気配もなかった。
. そんな日が続いた春のある日、海の見える丘の道で立ち止まり猪俣は
光る海を見ていた。
. 海は流動する不動として今日もそこにあった。
. 何も無い巨大な塊は無尽蔵な形象を秘めていた。下に豊饒を隠してい
るのだ。
. 「イノマタさん!」
. 突然の声に振り返ると、山茶花の黄色い花に額縁された女の顔があっ
た。
. 巨大なアフガン犬を連れて山茶花の生け垣の前に女がいた。
. アフガン犬は犬の中でも尤も美しいエレガントな犬だ。
. 赤毛の犬が首を激しく回したので長い毛の渦巻きが洗車用の回転する
ブラシを猪俣に連想させた。
. 「やあ、久しぶり。あれからあまり見かけませんでしたね。」
. 「ええ、色々忙しくて。お散歩でしょ、浜の方へ一緒に降りて行きま
せんか?」
. 「ええ、いいですよ。」
. 国道を越えて砂浜へ出ると観光地でもない海にひとけは無く、風紋も
荒らされる事無くきれいに残って、少し強い風に波頭の水煙が舞い立つ
瞬間に太陽を受けて虹色になった。
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. 女は名を哀子と言い母と二人暮らしだと言った。
. 前は大学の研究室で疫病の研究の助手をしており、その教授と結婚し
ていた。そこでの研究は“殺精子ウィルス”の培養、害虫、避妊への応
用で、完成一歩手前の段階にあり、遺伝子培養の結果ウィルスが非常に
強力なものとなり、あらゆる生物に感染する可能性を秘めて来たので彼
女自身が恐ろしくなり、すべての菌と関係書類を焼却して研究室を去っ
たとの事だった。それが離婚の原因となり今は母親(彼女は母とは言わ
ないで何時も分子さんと呼んだ)と二人で夫から譲られたあの家で暮ら
しているというような素性らしい。それに女には大学時代に収得した
“円心分離器の制御装置に関する特許”があり、その収入で人並みの生
活も出来ているようだ。
. 30前後に見える女はほっておくと際限なく自分の事を喋り続けた。
. 「特許で生活ですか。優雅ですね。」
. 「あら、猪俣さんこそ、散歩がお仕事のように見えますけど。」
. 「いやぁ〜そうでもないですよ、これでも。
資産監理も大仕事ですよ、ゆすりたかりも手揉みして並んでいますから
ね。少しのすきでも見せようものなら株屋や骨董屋がドカドカと入り込
んできますからね。そうそう、この間なんか遠縁の牧場主が馬主になっ
てくれなんて言って来ましてね。」
. 「あら、すてき馬主さんなんてね。」
. 「馬なんて興味ないですよ。もっぱら餌のいらない建築物が好きでし
てね。」
. 「でもメンテもね。大変ですよ家も。」
. − ワンワンワン! −
. 犬が青いテーブルクロスのような海の複雑なレース飾りになった白い
泡の中に取り残された小魚をくわえているサギに吠えた。
. 「そうねメンテね、なんでも持続力はメンテね。お宅はどうですか大
変ですか?」
. 「家はそうでもないわ。アルミ製の部品が多いので強度は無いんです
が劣化しにくく設計してもらいました。」
. 「なるほど、今度是非お宅拝見と……」
. 「はい、今日はちらかっているんで又今度。」
. 我々はそんな話をして海を見ていた。
. その時、水煙を上げていた波が首を擡げて崩れ落ちる時、太陽の光の
角度のために赤く光り、馬のような形になった。それは猪俣だけに見え
たのだろう。女の横顔を見ると彼女もあっと言ったまま口を開けている。
. 「あら、今、波が、赤い馬のように見えたわ。お日さまのせいかし
ら。」
. 「ええ、僕も今そんな感じが。」
. そして二人は顔を見合わせて笑った。
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