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人形がマスクをして能を舞っていた。
. 初っぱなからこれでは、さすがのエミもぶっ飛んだ。
. エミは葉山で能を見てしまってから、今まであまり興味が無かった古典芸能に関心
を持ち始めていて、それでは一気にという事で今度は文楽を見てみようという事にな
ったのだが、古典芸能などどこでやっているのかも分からず、ただただ葉山の海岸で
突っ立ってイメージだけを膨らませていると、なんだかフワフワと国立劇場の前に降
り立ったのだ。
. もっともここいらは皇居にへばりつくように巨大なビル群が建っていて、御用邸か
らは建物自体が因縁リンクしていて、すでに道筋は開通していたのだ。
. 皇居は空虚だ。
. ロラン・バルト流に東京はそのブラックホールに吸い込まれるように生成された。
. 車はそれを避けながら台風の風のように廻っているのだ。
. 「だって、穴のないドーナツなんて、ただの揚げパンじゃぁない。」(エミ)
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. 古典芸能はどこも、ハイソなばぁさんとオリエンタリズムに憑かれたような白人で
満員で、エミがそのままの姿で入場するには目立ち過ぎた。満員御礼の立て看板を後
目に透明化して入場したのだが、やはり席は二三の来るか来ないか分からないVIP用
の席を除いては満席で、しようが無くエミは幕のそでにいた下っ端の黒子に憑衣して
まじかで人形を見る事にした。
. エミが初めてみたこの文楽は“恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)
“能舞台定之進切腹の段”で、腰元をやっていた娘が殿の家来の男と子供をつくって
しまったのを詫びるために、親父が殿の前で能の有名な“道成寺”の秘伝を教える口
実で舞いを舞って、そのクライマックスの鐘の中で、お詫びに切腹して死でしまうと
ころだったのだ。
. ここの段は劇中劇になっており、おやじが死ぬまで人形が始めの出から能面をつけ
て能の演目を忠実に舞うのだ。
. エミは三人使いの黒子ではなく釣り鐘の紐を降ろしたり上げたりする黒子だったの
でわりと冷静に舞台を見て居られた。
. しかしこれは一体どうした事なのだ。
. マスクを付けた人形が顔を出している人間に操られているとは。
. 顔を隠さなければならないのは人間の方ではないか。
. エミもレプリカントの霊で人形には同族を感じるのだが、しかし人形使いが顔を出
している必要がどこにあるんだろう。
. 「主役は我々人形じゃないの?」(エミ)
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. そう思ってしばらくその人形使いの顔を見ていた。
. 彼は無表情で中空を見つめ感情を表に出さない。
. 人形が悲しんでも悲しい顔はしないのだ。人形使いの感情の出口は人形にある。彼
の指先にある。
. 特に女の人形使いは女に成り切った心を人形の方向へ移動させなければならないの
だ。複雑な女形なのだ。彼もまた見た目は女になっているとは見えない。
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. その時エミは豁然と理解した。
. これは憑衣なのだと。
. これは憑衣を見せるためのエンターテイメントなのだ。
. それを見せるために人形遣いは顔を出していた。能とは逆の憑衣の仕方だ。
. 彼は魂の抜け殻だ。精は人形に移動してしまった。
. そして客の心も人形に移行していく。たぶん、むかしは。
. 今は日本人も義太夫に謡われるこの時代の心情や精神が分からなくなって来ている
だろう。始めは義太夫のほうが主役だったのだ。人形劇はそのイラストのように片隅
でお話しの説明に行われていた3Dアニメーションのようなものに過ぎなかったのだ。
しかし大衆のセンスは言葉から視覚へと移行した。それに伴い人形と太夫のステージ
は回り舞台のように逆転したのだ。
. だが人形に劇場の気が一如したステージはかつて確かにあったのだろう。
. エミはこの人形劇の魔法装置を即座に理解した。
.「だって彼等の素顔が見えなければ“サンダ−バード”じゃぁないの。」(エミ)
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. 影響されたとされる“ライオンキング”も肝心の人形への憑衣性は取り逃がしてい
る。
. しかし、そうしたステージの中に又、能舞台と言うステージがあり、能と言う憑衣
劇を憑衣された人形が演じているとはどう言う文脈の演劇だろう。
. そしてその能舞台も能の主人公の人形の切腹によって突如として人形劇の現実に立
ち返るのだ。
. さすがのエミも頭が混乱して来た。
. 「これからはライブね。ライブでしか憑衣は起こらないもの。今までは私達、コピ
ーでしか見たことのないモナリザや、ベートーベンについて語ってきたのよ。」(エ
ミ)
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. 確かにエミの言うように、本当に憑衣して描かれた絵画はそれがフリーズして残っ
ておりそこに観客も憑衣していく。これはシャ−マニズムな方法論への回帰だ。それ
はライブでしか伝わらない。TVでは客を催眠にかけにくいのに似ている。息を合わせ
る事が重要なのだ。
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