|
.
裸の白人男二人が、松の木の下の草むらに手を繋いで立っていた。
. そして電球が切れたように消え去った。
.
. ここ葉山御用邸裏の一色海岸海水浴場では、台風が重なって遅れ遅れになっていた
逗子の花火大会を眺めるために、そろそろ人出が増え始めていた。
. エミは鎌倉方面から逗子海岸を通ってこの海岸で花火見物しようとしていた。
. 「だって、真上の花火なんて野暮じゃない。」
. そう言ってこの浜辺に落ち着いたのだ。
. バンブ−な海の家は閉っていたが、その前に忘れられていた籐椅子に座り込んだ
時、先程のドイツ人達を見たのだった。
. すぐそこの浜辺沿いに美術館があったので、どこかのアーチストのアートパフォー
マンスかとも思った。
.
. この海岸では昼間、納涼能が御用邸のとなりの庭で行われていて、海水浴も兼ねて
それを見物に来ていた紅姫と付き添いのナースの姿も見えていた。
. しかしもう水は冷たく看護婦は紅姫を磯で遊ばせるだけにしたのだ。それに能は小
学生以下は入れなかったし、入れても紅姫には退屈なだけだろう。
. 始まった能の音が隣の松林から風に乗って千切れ千切れに聞こえて来る。
.
. . .“おおさい おおさい 喜びありや
. . . 喜びありや
. . . この処より外へはやらじ とおんもう”
.
. . .(豊作だ、豊饒だ、喜びのこのエリアから
. . . 幸運の神やお前達を外へは出したくないぞ)仮訳
.
. 紅姫といえば哀子の一件以来、だんだんと食事を差し入れる女達も減って来て、む
しろ自分だけはこの子と関係がないようにしておきたいと思う者が増え、ついには
2,3日前から誰も食事を持って来る者もいなくなり、まだまだ暑かった大仏山山頂で
菩提樹の木の下の少しこんもりとした芝生の上にへたり込んでいた。
. それでも4才の少女には自分が追い込まれている状況も、対処の仕方も分からず、
ただただ「おなかすいた、おなかすいた…」と中空に呼び掛けるばかりだったのだ。
. 『この山から降りてはいけない。』という哀子の暗示が染み付いていて、そんな事
は思いも付かなかった紅姫は、水だけは公園の水飲み場から豊富に出たので、反射的
に水ばかり飲んでいた。幼い少女にはその辺の山菜めいた草でも千切って口に入れる
事も思い付かずに、ただただ何時もなら自動的に差し出される食事を待っていたの
だ。
「おなかすいた、おなかすいた…」
. 夏の日もやっと傾き、虫も鳴き出して、紅姫は又地下室へ戻る力も尽きてその山の
上で、眠りとも死の方向ともつかない忘我へとフェードインして行こうとしていたの
だ。
. その中で彼女は自分が哀子に連れて来られる前に確かに居た暖かい処、ぼやけた霧
のような暖色の部屋、その中に確かにいたマリアのような者を思っていた。
. 「マム、マム、マム…」
. 意識が希薄になって行く中、紅姫の背後に十五夜の月が昇って来た。
. それは彼女のシルエットを明瞭にして後光のように昇り立った。
.
. 「I am a saint........」
.
. その時、彼女の中に自分でも理解できない観念が通り過ぎた。
. 「I am a saint. 我、聖なる者なり!」
.
. 「ワン、ワン、ワン、ワン!」
. 犬が吠えた。
. セツが丁度、犬の散歩に山に登って来たのだ。
. セツは10日位前に来た時と同じ服装の少女が倒れているのを見て駆け寄った。
. 犬が少女の顔を舐めたが少女は動かなかった。顔色も青ざめて生気がないのでこれ
は普通では無いと思いケータイで救急車を呼んだ。
. 駆け上がって来た車に乗せられて行く少女を見送った。少女は前に見た時よりも何
かこの世ならざる印象で発光していた。
.
. セツは少女の身元確認のため第一発見者として警察に呼ばれた。事件性があると判
断した警察はセツに色々と質問したのだが、セツにもとんと少女の身元など分からな
かった。哀子しか知らなかったのだ。周りに居た主婦達も少女の身元の事は知らず、
それにまだ彼女達までは捜査の手は届いていなかった。
. 肝心の哀子は記憶喪失で紅姫をさらって来た記憶すらなかったのだから。
. 少女が遺伝子からある家の行方不明の子供である事が分かったのは、それから一ヶ
月ほどしてからである。
. そんな訳で家に返される前に紅姫はリハビリのため逗子の崇やセツのいた病院にい
た。「はい、ここがおうちです。」と言って急に家に帰す訳にはいかなかったからで
ある。
. それで今日はひさびさの外出が許された紅姫は、ナースとこの海岸で水遊びをして
いたのだ。
. 紅姫はキラキラ輝く水面に驚き、何よりもそのまじかで見る海の大きさに目を丸く
している。大仏山からは遥か遠くに光る海があっただけなのでそれが何で出来ている
のかも理解していなかったのだ。
. 「うみ、うみ、うみ!」ナースの教えた名詞を叫んでバンザイのようなポーズを何
度も繰り返した。
. 「あっ。花火、花火、花火がいる。」
. 汐溜まりに逃げ遅れた花笠クラゲを見つけてそう言った。花火の事は去年大仏山か
ら女達と見ていて知っていたのだ。
. 花火を見に行くと言われ連れて来られたのでそれが花火かと思い込んだ。
. 「だめ、だめ、刺すわよ。」
. クラゲに手を差し伸べた紅姫にナースが言った。
.
. 対岸の薄明かりは波で打ち寄せられて並んだ夜光虫のように見え始めた。
. 火力発電所の煙突のフラシュライトが上空のヘリの点滅と連絡しあっているようだ。
. 花火大会はもう一つ海が漆黒に近付くのを待っていた。
.
|